そこにダニエルやノアやヨブが居ても、そこで災いと裁きに苦しんでいる誰をも助ける事はできない。自身を救いうるのみ。だからこの物語の運命は変わらない。その時になって解ってから救われたいから了見を手のひら返して嘘をついてすいませんでした…そんな偽りの懺悔しますでは、とうてい許されない。

神は悪人に怒る、憤る、それが神様。神は背を向けたもの達には容赦なく罰する。それが神だ。生ぬるい愛だ愛だ…と偽りの愛を解く人々は、この神の性質から背けさせようとする偽りの教義にはめようとしている。神は愛をもつが、生ぬるい自分自身の優遇に受かれて酔いしれる愛などけっして解かないし、神はけっしてその様な偽りの愛へ誘わない御方である。人の決めた都合の良い愛の逸話に、この人生で、貴方は何度騙されてきたのかを、良く、貴方は理解しているのでは無いだろうか。それは悪人の手引きであり、貴方を裏切り失望させる為であり、神の愛はその様な偽りでは無い。

この様に厳しくとも、ダニエルやノアの様に酷い世を見て悟って、自身を変え、自身を磨き、救いうるのみ…に自らからが変わることができる。筋書きは変わらないが、自分自身の運命は変える事ができる。それが大事なんだ。

全てが自身のみしか助けないのでは無い。アッシリアに渡された、バビロンに渡された、あの反逆のイスラエルの家の時代では無くとも、

今の時代も僅かに、人々を救うことへの望み託される人々がいる事を示している…と多分言えるだろう。主は全てを、最後まで見捨てないが、悪人はこの様な人々が世に現れる度にこれを踏みにじる。どの様な世もいつも踏みにじってきた。それが人々の世。イエスさえ処刑した様に。ステパノを囲んで殺した様に。人々の世とは正にそれだ。

そして、主はこれを災いとし、取り除く。主が最終的に話している、滅ぼすか、救うか、…それは人々の肉の衣のことじゃない。魂のことだ。


イエスは以前にも何度も書いたけれど、両刃。イエスは両方話した。私は貴殿方へ剣を投げ入れにきた。私は何も貴殿方へ剣を投げ入れにきたのではない。

救いうるのみの人々を本当に救いにやって来る。彼等へ剣を投げ入れに来たのではなく、救う為。もう一方、主の裁きの炎に投げ入れられうる人々を剣にわたし、裁く権限をもつ4人のケルビムへ渡す。これは全く、容赦なく渡す。悪魔の僕を助ける事等無く、勿論彼等にとっては裁きの為に、その剣を投げ入れる為に救世主は来る。その扉の鍵を持っているのは子羊であり神より先に来る。主は子の踏み台を先に用意するだろうと現在は判断できる。大きな患難を通ってきた人々の魂の先頭に、既に子羊は既に立っているから。主は地の災いを取り除かなければその座に座らない。

だから、最初にイエスが来るんだ。イエスの前にエリヤともう一人は待つ。

最も恐れるべきは子より主の怒りと憤り。イエスは本当に主人より柔和だ。イエスの了見なら主は情けをかけてくれると約束をした様なものだ。しかし、悪人にはイエスも死ぬほど厳しいです。

時はまだ来てないが、近付くばかりで、延長はもはや無いんだ。エゼキエルに託した時点で、定めの刻は明確に決まった様です。しかしまだ来てないのであるから、自身を練り、神と子羊に向き、自らの運命を変えること。貴方は世の運命を変えられないが、貴方は貴方の運命を変える事ができる。

自らその道を自ら臨むならば、今もまだそこへ向かって歩む事ができます。それが大事なんです。

人の建てた教会に頼るのでは無く、貴方は貴方の心に教会を建てるべきです。聖霊が貴方へ座るのには、貴方の中にその座を作らなければならない。

貴方は貴方の心の座を右側に置け。
世は鏡の様に、正反対。貴方の心の座も中身は正反対です。貴方とサタンは神の前へ立った。サタンは貴方の右側に立った。しかし、神の目から見よ。それは貴方の視点とは反対である。それが神の視点からすると、そのサタンは実に、神の左側に立っているのである。

残念ながら、世界の殆どは皆、左側に心の座を置いているとしか言いようがない。

世界の人々の殆どが本当の右の座に座っているのならば、地球自然はここまで果たして荒れているだろうか…、果たして自分自身らの儲けの為に動くだろうか、果たして、戦争や排他、殺戮、ここまで人々の世が荒れているだろうか…、果たして、科学をこの様に自然破壊の為に使い続けるだろうか、果たして、この様な腐敗の技術で、自然に生きる生物を追いやり絶滅させ続けるだろうか、何故人々の世は、口裏を合わせて清い人を自殺へ追い込むのか、、

これは、この世の人々の多数派が行っていることである。人々は嘘が巧くなった。自身らの悪を遂行し偽りを隠す為である。

この様に、もし、世界の殆どが右側の座にいるのならば、何故世はここまで平安では無いのだ。

貴方の心の中身は現実の左右と反対となり、克つその比率をこの世で表しているものに気付けば良い。その比率どおりであり、克つそれは表の世界とは反対になっている。それが貴方の魂の座を意味する。故に、バイブルとはとことんまで正しく真実である。貴方は心の座を、その聖霊の教会とし、それを右側に置け。

兄弟を愛するならば、この様な事は言わないべきなのか。実は知っていて言わない事が兄弟への愛ならば、実にその様な愛は虚しく偽りで、役にたたず、また人々の助けとなる事を隠し、滅びへ誘うだけである。私達は義のラッパを渡されて、悪人を改めさせ、それを救う為に気付かせて、貴方は吹かないのか。その様な愛は愛とは言わないのである。

鏡は生き写しでは無い。正反対の写し絵であり、鏡自身が光を放つのでは無い。鏡は放つ光自身では無く、発光元を浴びて反射しているに過ぎない。それが真実では無い。


偽りの教義ばかりで生白嘘の安心を与える人々に耳を貸しちゃいけない。本当に貸しちゃいけない。彼等は嘘の読み説きを教え、貴方の道を踏み外させる。イエスは彼等に言う、不法をはたらくものどもよ、行ってしまえ。イエスは貴方達を知らないと言う。それは本当なのでしょう。

それはさておき、貴方は貴方の運命を変える事ができる。それを可能にするのは、人々の信仰に形だけ集まって生白偽りの安心に酔うんじゃなく、貴方自分自身がバイブルから悟る事であると、その様に私は臨みます。

それでは(2019_01_03)