個人は現在、今現在、全体的には正しい人々とは決して言い切れない本物のユダヤ人達が回心し始め、善人、義人、清き人々へと目覚める為の特殊な期間に入った事が濃厚である可能性から、一切のバイブルに関わる預言の推理を休止し、また自身を戒める為にも封印した。私は至らない人であり、解らない一人であるので実際には封印してみた…が本当の事である。

書かれている事が封印されるのであるから、この事を書く事自体も封印するべきであるが、
書かれている預言は実際には封印する…では無く、『封印される』が事実であり、神様から封印されるのか、サタン、悪人や悪魔の下部らが邪魔する意味で封印されてしまうのかは、個人には全く解らない。

しかし、確かに、このブログの場では無く、この様な事を別の交流の場で話すととかくこの様な話は叩きにくる人々が沢山であるのが同様に他で起き、克つ運命的な躓きにあったと言える事が、私には起きたと言えば起きたと言える。

ただただアンチ目的な投稿者が増えただけと言う話では無く、一般人では無い知識人であり、尚且つとても狡猾な弁証法を知っているアンチクライスト達がもう批判しにやってくるのである。またはうまく反らさせようと必ずこの様な輩はやって来てそれをするのである。(その様な事があるので、その様な事がある度に逆にだからイエスは更に真実なる救済者なのだな…と確証を得るのではありますが。)

故に預言は本当にその時期である可能性がありうる。日本の民族の一部に、本当のヘブライ民族の血が注がれているのならば誰が語ろうともそれが真実なる預言に近い程に封印されるだろう、それは私がどうこうでは無く、日本にいるヘブライ民族がそのような回答を合っていようが間違えていようが読むからである。それらは日本にいる仮定でそのヘブライ民族が悟らなくさせるよう封じられてしまう…と言う事と同義かもしれない。彼等は自分自身で練って自分自身で悟っていく…と言う事になっていくのだ。

勿論、ヘブライが日本にいるかいないかは、説であり、これは仮定である。日本人が自称する偽ユダヤ人の可能性だってあり、それであるならば自らユダヤ人など決して言ってはならない。そして日ユ同祖論者とて、展開がまるでO系モンゴロイドや通称弥生人と呼ばれている人々をユダヤ人にしてしまう様な狡猾を交えた乗っ取り論調の人々も沢山いる。

それは突き詰めれば自分自身がそうで自分自身の民族が正しい…と言う人々の本能から来るものであり、それは


人は幼い頃から悪意に満ちているのである…と書かれている通りになる。

しかし、故に創造主は洪水で全てを滅ぼさないと決めた…とある。さて、あたかも、悪いなら亡ぼすべきが、その逆だからそうしない…とはどういう事であろうか。本当にバイブルとは解りやすく書かれていて克つ、奥は深い。意味がある。それは悪を肯定し悪のままに放つのでは勿論無いと個人は思っている。何故その理由により、創造主は洪水で亡ぼす事は止めたのか…

この答えを私は書いてはきっと駄目なのだろう。今現在が、本当に封印される時期ならば。だから皆でその心の赴きを練って、育てよう。封印される、練られる…

ああ、神さま、この様な行動はこれでこの様に示すのが正しいのですか。私達にはどうなのか、素直に解らない…と呟いてみる。

しかし私達は何にも解らないながら、歩むしかないのであろう。感じる事は皆それぞれ沢山ある、しかし施しの左半分は、人に伝えてはならない。左と右の例えとはあたかも左が悪い…と言う事では無い。この様な回答もほいほい伝えてはならない。のだろう。

封じられてしまう、封印される…なのにもうここまで話してしまう私は非常に不器用である。この期間が今なのか、紀元一世紀のみなのかは、個人は実際には解らないが、個人は何度も言うがただの人であり、実際には何にも解らない一人に過ぎないのであるが、そのきっかけのままに素直に従ってみる。

さて、これも何度も書かせていただきますが、個人はキリスト教会の人と勘違いされそうだが、どこの教会にも属していなく、また新興宗教を立ち上げる気も『一切無い人』である。個人は宗教の人では無い。個人、キリスト教云々、ユダヤ教云々、宗教と言うよりかは、事実、実際としての本当の神様への繋がりを求め続ける人であり、スピリチュアルでも何でもない。

そして最初に創造主、永遠なる神と言う存在に、知識としてでは無く、感じる確証として最初に気付いたのは自然倍音の神秘であり、『創造主なる神がいなければこれは成り立たない…、、』と悟ったのは、実はバイブルでは無く、この自然音楽に秘められた神秘的な神の暗号である。私が求めるのは真実なる全知全能なる、永遠なる、本当の神様である。我々の心の創り主である。

実際には音楽家でも神の存在に気付く筈である。そしてプロの演奏家は音律についてとことん研究するべきである。実際に、例えプロの演奏家とて音律を全く知らない人々が殆どであり、尚且つ、音律を良く知る人々でさえ、自然科学的に音の神秘を求めない人々が沢山である。またプロの演奏家は悪の結社に荷担して報酬を得ない事であるが、世は全くその逆である。自然科学者だけでは無くとも本当の神様を求める時期に来ている様だが、やはり、人の世は自身の心の赴きはその様な人々が沢山いながら、メディアではとことん封じられてしまう様な不思議な時期にあると思う。

これは他者を批判するのでは無く、いち個人としてはこの様に思う…と言う前提で申しますが、武田邦彦さんは、神様は遺伝子だ…と仰られました。個人もその様に導きだす真実に遺伝子は大いに関わると納得はしましたが、遺伝子そのものも、神のプログラミングにより出来た被造物の一部であり、神様を感じるツールになる役割を果たせるだけに過ぎない…と個人は解釈しています。その先に、我々を造る周波数の法則があり、周波数と言うプログラミングは、音だけの話ではありません、そして全ての媒体の周波数達、空気と物体の伝搬音、電、磁、粒子、光、全ての周波数は互いにリンクする。そしてそれらの周波数は、これが実は神の音律なのである。この地の世界である宇宙世界、その全容全てに関わる神の地によるプログラミングの根元…と個人は思っています。

しかし、あたかも、地球を見回し永遠には程遠いのが地球自然の遺伝子生命である。地球は朽ちやすい。これは酸化劣化が起きやすい状況であり、とても果てない時の流れに存在を赦される宇宙の法則からして、実は地球の遺伝子は逆で実は遠い=実は不具合…なのが地球生命の遺伝子である。それはある意味、これはバイブルに書かれている通りと思えるが、個人はそれは語らずに自身を戒める必要があると今回、その様に思った。知りたければその人が探せば良い。練りたければ自身で赴けば良いと思います。それで練られる訳だからです。私が教えたら、間違っていた場合、間違っていた形で認識させてしまい、あっていたとしても、それはその回答を簡単に知る人々が練られないからでは無かろうか。私達は密かに祈るしかない。そして我々ができる行動とは、全き者のヨブさえ叱られるとおり、儚く非常に小さく、尚且つ私も全くヨブにさえ至っていない。

さて自然音楽の響きにより神様の存在を知った…バイブルを読んでいなくとも、まともな自然科学者ならば、全うなほどに、それを探求していけば当然創造主の存在に気付く筈だ…と個人は思っていて、これは、ニュートンも同じ事を実は言っていた事を後から知らされた事による。創造主、宇宙の創始者と言う存在に気付いたのは自然世界にある自然音律の法則である。

後々バイブルを読むきっかけは、更に、ニュートンもバイブルを解読している事を知り、それを知った途端に、走馬灯の様に、自身は過去の人生、歌や音楽やら、詩やらその他の出来事において、このバイブル…と言う真実なる預言書を読むきっかけが沢山与えられていた事を知った為でした。そして決定的な出来事が自身には起きた…その後に。

しかし、この様な事を話すのには中々器用な表現を用いる事ができない個人でありますのでストレートに書きますが、バイブルとて、沢山の、結果書き換えと言える程の誤訳が沢山あるのです。

一応、フリーメイソンリィが訳したバイブルと言って良いのは、それはKJV、キングジェームズバイブル、欽定訳です。キングジェームズはフリーメイソンリィのメンバーでした。今現在、フリーメイソンリィ内部のクリスチャンはイングランド国教会系と言って良いでしょう。まぁ大体ウィンザー家だからそうですね。皆さん、知っている人は知ってますよね。

そして実はニュートンはフリーメイソンリィのメンバーだった事はかなり濃厚です。彼の友人はフリーメイソンリィでした。が、こう言った従わされる人々本人達を個人は否定したり非難したりと言う事はしない。後々その理由も書きますが、ポーツマス文書も、その様に極秘で書かれる理由とは、モーツァルトと似たようなものであるだろう。暴露したいができない…その様な時代背景です。あ、私がニュートンを誉めたからって私はフリーメイソンリィのメンバーではありませんよ。

日本の聖書は大体カトリックとプロテスタントの合作訳です。カトリックとプロテスタントは途中から共同体となりました。


党派心ですね。


個人はそのどちらでもない、Geneva Bible、ジュネーブ聖書を愛用しています。個人はどんな派でもありません。

さて誤訳…そして特に、そんな中で日本語訳はとかく誤訳が多いのである。意図的か偶然かはさることながら。これは批判では無く、人は誰でも間違い、また人は幼い頃から悪の素性がある故に、悪人も当然いて、悪の意図が入り込んでしまうのは当たり前の人の世だからである。

克つ、何が克つかわかりませんが、大事な事は党派心に支配されてはいけないと言う事でありますから、この様な猜疑心に執着して二心してしまわない様に気をつけると同時に、克つ悪から離れ、個人個人らは正しき人々は何処にでもいるのであり、その様な人々を非難したりせずに、迷っていたら励まし合い、サタンの知略には勇気をもって立ち向かう事でしょうね。

党派心、キリスト教と言うのは分派分派です。争いと迫害と虐殺にまみれながら…これが現実です。しかしこれが起こる事もバイブルには書かれているのであり、この先にある真実と神が臨む人の在り方に到達していこうじゃありませんか。フリーメイソンリィ家系に生まれたらフリーメイソンリィでしょうが、もし、貴方がそうだったら…どうしますか?、、親の魂と子の魂の性質はその様な党派も民族も関係ありませんよね。

殆どの宗教と言う認可を降りた団体が、全て分派分派、エッセネ、ワルドー、プロテスタント、カルヴァン、ネストリウス、メソジスト、バプティスト、ニコライ、etc,etc

そして、アジアにある7つの教会とは悪い意味合いだけでは無くて、イエスの御使いが宿る最後に託された7つの教会でもある訳です。党派心を抱き、分派しながら堕落していく教会派の未来の歴史を既に明かしていた預言は本当に適中しましたが、過去の成就だけが預言では無く、世が過ぎ去るまでは、一点、一画も預言の教えは過ぎ去らないのです(その様に個人も思います)。

一つの預言は一つの成就では無く、本当に複数の未来を成就させるものなのです。ですから、書かれている通り、御使いの宿る最後の7つの教会の教えに耳を傾ける事もとても重要なのでしょうね。

また、兄弟達はいがみあわないで、励まし合うべきですね本当に。訂正すべきなら平和を愛するやり方で行こうじゃないですか。だから、個人はどんな派でも無いのですし。また、きっとある最後の7つの御霊が宿る教会の人々に、ひっそりと祈ろうじゃないですか。教会はどれも派閥の着色料が強いのですが、だからと言って個人はどの様な教えにも、私達にも完璧なところなんてお互い無いのですから、励まし合いましょう。神様にとって悪い教師、良い教師、きっといますが、本当に教師の方々は、本当にご苦労様でございます。

Genevaは好んで良く読みますが、口語もプロテスタントとカトリックの合作ですが、日本語な事から、それは読みますし、解釈を確かめるのに、マソラも読みます(ヘブライ語をすらすら堪能できるほどには全く至らないので、コツコツ翻訳しながら読みます。ユーザー辞書をヘブライ語で作ると非常に便利ですよ。)

マソラ本文は、レビ族の祭司が記述していった書物であり、レビ族の未来はヤコブの言っていた事を気にかけながら、古いと言えば古いですが、その様に読みます。また、新しいものと言えばイエスが言っていた様に新しいし、精錬された金であるならば、それは霊的に何かを感じずにはいられないでしょうし、皆さんがお感じになった事や御経験や体感された事がそれは色々ありますがそれは、色々な理由によって、色々私も読みます。私達は、ひととおり数千日~およそ2万日程も費やして読むことになますが、精錬されたイエスの金を皆で得ていこうじゃありませんか。本当に我々は、白い心と、本当に良く見える様になるための良い目薬が、本当に必要になってきましたよね。

そして解読にも費やしながら、行動を伴わせる。正直、神とイエスには貫き通されている程にばれているので、嘘をついてもどうしようもありませんから申しますが、行動たる全きものに、個人は至らない人であるのです。しかし私達は本当に至らない人だからイエスがいる。至らない私達に至る人がいてくれたらどんなに良いだろう…って世の中で思いませんか。
私達(全世界の人々)は本当にラッキーなんだ。これ程の幸運があり得るか。

イエスは一度は死んだが死んでない。今もおられる…イエスもまた、世世限りなく生きておられる。これを知るべきですね。

だから救世主であるのです。来てくれた訳ですし、そしてまた、これから誰でも、イエスの御前に立つ時は、書かれている預言が成就する時に、その時は来る訳ですね。どの様な立場に、その時の貴方はあるのでしょう。


沢山の解釈から、我々は自身がこれだ…と感じるものを信じて突き進むしかない。行動もかねそえて。尚且つ、その人生の歩みの中に、その一点の頂点に、全知全能の真実なる本当の神様を心に置く事は何より大事な事だと思える。とても大事な事だ。知るのは早ければ早いほど良いと思う。

さて、オカルト紛いの内容の、休止していない残しておいてある記事は、バイブルの預言を読み始める以前のものであり、大層な事でない記事だけである。または世の中を本当に良く知らないままに書いたものも沢山である。または、自身の過ちの記載も沢山残したままにしてあります。しかしきっかけを与えられる良い部分は残っている(かなぁ)…と個人は思う程度にどどめて、残したままにしております。(そして当然、間違いも沢山あります。)

預言解釈は個人の単なる推理であり、私から封印する必要が無いならばまた公開するのみですが、その内容は叩かれて当然の人の世である。それである故に公開しても封じられるのだろうか。また、預言の接合とは人々に全く救いになるに足りない…と個人は思う。時期だけ仕組みだけ知っても、心の赴きが無ければ全く意味がない。

私達はこの荒れた世でどの様に心の赴きを成長させていく事ができるだろうか、またどれ程に、救いたいと言う本能を叶える事ができるだろうか。人生はその歩みが神様の望まれる事に叶うかどうか、それに尽きるのだと。勿論、現実的な、本当に我々と、この宇宙世界を創った本当の神様に…です。

さて、この日本も、我々も、霊的な自覚と言うか、成長は封じられてしまう時期なのだろうか。預言に関わる内容を用いる事はなるべく避けたいが、スタートは恐らく1987年、The temple institute財団の設立の時期がそうだと可能性を立てて、我々日本も何やら本当に霊的な成長を封じられてしまう時期にあるような気がしてならない事から始まる。しかしそれを言うなら全世界であるが。つまり我々の一部もそうならば、その為に精神のあり方を自分自身で練る、または練られる期間である可能性があるのでは無かろうかな…と。


その様な事を思いながら、あの事件は一体、何なのだと思い返す。それはオウムの登場から壊滅に至る現在の虚しい謎が解明されないままの処刑と言う幕引きまでの、サリンが初めて使用されたのが、我が国日本…と言う惨劇を取り上げてみる。この日本、我々にとって恥ずべき、また失われた人々の命に対し、本当に悔やむべきこの事件は、我々の民族から出てしまったのだ…この惨劇は、日本人の霊的な成長を封じる為のある意味は策略だと見て良いだろうし、克つ我々の恥ずべき象徴だとも言える。現在の日本は非常に便利に溢れていながら皆が皆、心は幸福でなく、心の自由が実は無く、克つ非常に酷い殺人事件が頻繁にあり、彼等には神様と言う概念が恐らく無く、であるゆえにだから実はどんなに便利を得ても賃金を得ても、心は満たされず実は不幸で、その不幸の故にかは解らないが、その柵の末端で、人の命が奪われてしまう、人の憎しみにより、、、人を殺してしまう。人が憎しみを抱くのは、単純に幸せでは無いからである。

そんな社会の流れの中にあって、その無神論者の惨劇はテレビで報道される度に慣れ、あたかも他人事の様に我々は日々、ひょうひょうと暮らしている…これは突き詰めれば大昔からだが、最近のこの虚しさと、善き心の氷結は、何処から来たか。

オウムの登場はテレビからだった。それが不思議である。今ある新興宗教に、酷いものは本当に今でも沢山ある。そんな中にあって、あの当時、何故、、本当に何故、大々的にバラエティに出されていたでしょう…テレビ局が、何故、電通がそれを許可していたのか…明らかに、これはおかしいのでは無いか。悪だと知っていてあえてテレビに出したのであるか。

そして後で潰してその様な赴きは全てが怪しいものだと植え付ける為だと言えるのでは無いか。その植え付けをする為には、嘘のデマカセより、本当の事件を引き起こして植え付ける…のである。その為にもし、本当にもし、その為にサリンを使用したのであるならば、本当に恐ろしい事だと言える。

あれだけ、頭の良いあの様な教団の幹部連中が、座蒲団からジャンプして空中浮遊なんか信じるわけ、、無いだろうに。尋常ならば絶対にありえない…むしろ頭が優秀ならば、善悪の分別が無かったとしても、仕組みとしてでさえ、当たり前に当然気づいている筈である。嘘の教祖だと…。あの様な歌を歌う首領が、本当に彼が救い主だと思うわけが無いだろう。あのような学歴をもつ人々が…である。それはそうと勿論知っている前提でそう動いていた人々で、それはその様な計画をメディアを向けて発進し、霊的な成長を食い止める意図的な策略だからであると言う可能性。彼等はその加担者である可能性がとても実は濃厚なのである。

その様な人々は、始めから知っていてその様に動く事を指示された人々であり、彼等もグルであり、本当は実は影で安生を約束され、実は処刑されてないのでは無かろうかとも思える。全てが洗脳の為の意図的な茶番。しかし最大のとがめとは、その茶番策の為に人々の命を本当に奪ったと言う事。

霊的な成長への封鎖…何故あのタイミングであったのだろう…それを探すならば、ある意味は宜保愛子氏の登場だろうか。テレビはいつも茶番だが、彼女は確かに本物だったと言える。彼女の登場により、我々日本人の精神的な霊的成長、それが目覚めるきっかけとして、起きたからであると言えないだろうか。逆を言うならば、それをエスタブリッシュメントらは怖れた…その精神面の成長と霊的な成長。それが都合が悪い悪人にとっては、それを逆に大々的におもいっきり潰すきっかけがあの時期、本当に必要になる筈である。それがオウムの登場と、その事件と言えるのでは無いだろうか。

宜保愛子氏は神奈川出身だが、宜保と言う苗字は沖縄系の苗字であり、宜保と言う家系の霊感が強い人々を『ユタ』と呼ばれている(らしい)。沖縄は非常に古代のイスラエルと関わりがある名残が沢山ある。宜保と言う苗字かつ、ユタの出身である事から尚も総潰しをはかった…と言えるだろうか。

また、このタイミングの時期も、やはり1987年であったりするのが驚くべき事だが、私のは説です。

これは本当に、勿論個人の説や推測であるから、参考程度にとどめておいてほしいだけだが、もし、この様な事の為に本当に人身が奪われたのであるならば、絶対に許されるべき事ではない。

何故日本はそうなのか。何故日本は核が二発も落とされたか、天皇家はその第二次大戦中も、実はガーター騎士団の一員である(知りたい人は、ガーター勲章について、調べ尽くせば良い。)…ではそのメンバーであるならば、核が落とされる事は事前に知っていたのでは、ありませんか?

しかし天皇家の個人の人々を批判するのでは無く、柵と言う権力に従わされるのである我々と同じ犠牲者だと…その様に知れば、昭和天皇はどれ程に涙を流し、どれ程に悔いたろうか。天皇家を拘束する集団にその陸軍海軍満州財閥があり、また海外と共謀を組む共産派があり、その様な柵の流れにねじ込まれまたまま、何が正しいか、全く解らなくなってしまう人々の世である。もし、貴方ががんじがらめの皇族に生まれたら、貴方の心の赴きがどうであろうと、権力と言う柵に縛られるのである。一歩間違えば、日本は全滅するのである。この様な我々は全て同じ立場であり、尚且つ、我々にも悪は潜む事を知らなければならない…のだと思う。


さて、だから何故、日本はそうなのか…、日本は今現在の社会構造の風潮を見ても、しかしだからこの推察は否定しきれないのである。仮定ではあるが、何故こうなのかを考えていこう。

それは、この日本も、悪魔、サタンの座だからである。それは実は、天孫が降臨したと言われている伝説がある大昔から。

何度も言うがこの様に、人は生まれながらにして悪の要素が実はあるのである。

我が日本も大昔から、争い権力の為に戦をし、その様な事の為に沢山の人々を殺す事をいとわず、自分達の為に要人を暗殺し、悪の為に知略をし、江戸であっても職を失いつつある侍は人を切り賃金をもらい、現代では自然破壊をする科学技術の腐敗した産物に我々は酔しれ、人々を都合良く支配しようとし、我先に自分または、自分達の有利なテリトリーの為に他者を汚す事をいとわない、その故に成り立ってきたのは、ここ日本も変わりは無いのだからである。

サタンの座る座とは、あらゆる国や陸や島にある。ここ日本も、悪魔、サタンが座る座の国なんだと言う事だ。ロスチャイルド家の投資の順番は、日本は六番目、南アメリカは七番目、そして現在、中国は八番目である。(投資は途中ロシアもあるが、それ以前に投資されていて、その時は四番目。)これが何れ十番目まで行くのでしょうかね…。さて…。

あまりにもネガティブであるから、ポジティブに解釈すれば世が良くなる…と言う事だけでは無い。ポジティブとは、ある意味は不幸に叩かれている善い人々を見放し、見ないふりをするとても残虐な行為である。

サタンの座…これは個人は決定項として見ている。故に我々は、このサタンの意図的な妨害がある事を当たり前にある事を理解しながら、それを貫いてまでしても善と本当の神様への義に生きていく勇気が、いる。本当にいる。今のこの時代だからいるのである。

殆どの人々は自分自身の裕福度や幸福度に対して不満がある故に実は反発していて、もしくは人間の権力支配に惰性したかたちで生活をしている。その様な集団行動は、日本の風潮である故に他人に対して干渉し、監視し、それに倣わない人々に対して不満と精神的な攻撃をしてくる国なのである。そしてその様な人々の、誰にも、心に神様が…無い…。

これを大体にして学生時代からその社会構造は学んでいきながら、海外から導入された仕組み、古来からある日本の風潮が、混ぜられたかたちで形成されていくのが我々の国、日本と言えるだろう。それはサタンの座だ。

日本社会構造のいじめとは、学生時代だけではなく、社会に赴いても、至るところにあるのがこの日本の現状である。それは皆さんが目をつぶっていても、知っていますよね。ポジティブに目を潰れとは、実は正しき人々を死に追いやっている。

これをサタンの座と言わずして、何と言うのか。克つ、日本と言う国は、本当の神様を信じている人々、正しい人々、善き人々が生活しにくい国であるが故に、だからそれはやはりサタンの座なのである。

この集団化行動を他社へと強いる人々は、勿論、社会、学問、情報メディアに洗脳された人々の集団行動であり、それに倣わない人々に対して彼等は石を投げつける。

知らない内に人々はその様な悪魔の見えない意図に加担をし、その様に知らない内に流されていき、また善い人々に対し実は呪っている。心に神様が無いからである。呪いと言うのは単に呪文や念だけの話では無い。呪いとは、実は社会において様々な人々が平気でしている行為である。恨み妬み嫉み等を怒りをもってその気持ちを人々へぶつける行為であり、殆どの人々が実は呪いを人々へかけている。しかし本当はそれによってその仕掛けた本人達が、気付かないままに呪われていっているのである。

無意識にかけている人々もいれば、知っていて綺麗な言葉隠しにかけている人々もいる。この行為自体が危険であり、言葉隠しに受け入れさせようとするとき、彼等は正論を使う。自分らにとがめが来ないようにだ。良い言葉の様だからとて、それを受け入れたりすると、その人に不幸が起きる。この様な呪いの種類には、絶対に受け入れてはならない。ここまで狡猾であり、それを無意識に行う人々が沢山だからこの国は恐ろしいのである。だからそれを知る必要があり、克つ、その解決の謎は、だから神は心に本当に必要であり、自分自身だけでは守りきれない。自分自身を救うと言うのは本当だが、自分自身だけでは救う事なんてできない。本当の神様から離れているのならば。

実は、この日本はこれほどまでに恐ろしい国なのである。

蔑まされた人々は、何故こうなのだといつまでも悩むより、一旦、『日本は実はこうなのだ』と知ってしまった方が楽である。当たり前なのだと知っておいた方が逆に心構えができ、克つ正しい道を諦める事無く、屈したりしない決意を持てるのならば、その方が良い。悪の道に惰性などしない方が未来は絶対的に幸いだからである。

しかし、知っていて狡猾に悪の社会を仕込む側に回る人々…以外で、また、加担する人々、惰性する人々、見過ごす人々、以外で、

、、それ以外は本当にその様な人々の大半が気づかないままに、気づけないまま、実はそれをしてしまっているのが我が国なのであり、憐れみを必要としているのは本当である、と個人は思う。

彼等は、どんなに贅沢三昧できても、どんなに人間が決めた地位を得ても、幸福が得られていないからである。むしろ、その仕組みの柵に縛られて、時間としても、心の赴きとしても、自由を失い、自分自身を省みる事も無い故に、改めるチャンスも少ない。その法則に尚、強いる様に流されていき、本当の自分自身や、本当の世界や、本当の神様の事を思い、考え、感じようとする機会など、どんどんできないままに誘われ、自分自身が何かも悟らなく、気づけば年老いて、虚しいままに土のちりへと帰るのである。

この様な事は、全くもって幸福では無いのである。であるので彼等に本当に良い意味での憐れみが本当はちゃんと降り注がれるチャンスはあり、この世はけっして絶望だけではない。本当には手を差しのべるべきである。しかしながら、この世をその様だと知っていながらにして、尚狡猾に操ろうとする人々が日本には実は沢山いるので、これが厄介なのである。

この様なのは恐らく、未来に活きなく、虚しく何も無くなる。汲まれる事もおそらく無くなる。それらの人々の輪廻の旅は、今回で実は最後となる。しかし彼等はその事実を実は知らないのである。

これ程に哀しい未来は無い。であるのに、何故悪あがきをするのだろう…それは私には全く解らないが…それが、気づけないままにあるからだ…だから救済者は一旦来た…それは誰か…と言う話である。

だからといって、憐れみを必要とする人々に対し、きっかけを与える事が出来たとして、克つ救いだす事ができたとして、その様に救いだした人々がここ日本で平安に暮らしていける…と言う訳では無い(しかし、時の末、その魂は幸福を預かるが、この現在の途中はそうでは無い)。

この無意識の洗脳集団は、無意識に石をその目を覚ましたその人へも投げつけるようになるからである。これが日本。それは中東にも多分沢山その様な国はあるだろう。

それほどに、この日本は善に生きていく人々に対してとても厳しい国である。真の、心の平安を求める事である。それは地位でも金銭でも人の世の名誉でも無い。私が彼だと話しても貴方が巡りあったのでは無い。それを、自分自身が求める人生を、自分自身が歩み、自分自身を自分自身が練り、自分自身と世界の探求に自分自身が赴き、自分自身が気付く本当の創造主と、本当の救済者に自分自身が巡り会う事である。


それでは(2018_09_20)